世界史を変えた
16世紀宗教改革
ルターの宗教改革
聖書そのものへの信仰回帰
教会による免罪符の印刷・販売への批判
教会は、十字軍で疲弊し、
カネを必要としていた。
1517年
ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、
ローマ・カトリック教会から
プロテスタントが分離した。
印刷機の発明
聖書が印刷される
スペイン
ポルトガル
カソリック大布教
イエズス会
海外宣教
+
軍事力
スペイン、ポルトガルの植民政策は布教
キリスト教徒の信仰を広めることでした。カトリック教会の一句信仰を中心とする国家であり、キリスト教徒としての使命感が強く、異教徒を改宗させることが重要視されていた。そのために植民地に宣教師を派遣し、キリスト教の布教活動を行いました。
イベリア半島の再キリスト教化
スペインは特に、イスラム教徒による占領下にあったイベリア半島の再征服を成し遂げた経験から、異教徒に対する闘争心が強く、海外植民地においても、先住民の文化や宗教を否定し、キリスト教に改宗させることを重要視した。
銀の獲得
決済システムの確保
植民地から銀の獲得=莫大な利益
ヨーロッパ大陸の決済システムと密接な関係があった。銀は不足していた。ヨーロッパ諸国は、新大陸から大量の銀を輸入し、ヨーロッパ全域に流通させることで、大量の利益を上げた。
国際的な交換レートが統一
当時のヨーロッパでは、銀が貨幣として使用され、また商取引でも広く利用されていた。しかし、銀の不足で高価な商品であり、商取引や国際貿易の拡大の妨げであったが、一気に解決された。
国際貿易の促進
貨幣の種類が多種多様で、交換レートも国ごとに異なっていた。しかし、新大陸からの銀の流入により、国際貿易が促進されることになりました。新大陸からの銀の輸入は、ヨーロッパの決済システムを近代的なものに変革する契機となった。
オランダ最強へ
カルビン派
プロテスタント
スペイン追放の
ユダヤ人の大量移住
海抜以下のネーデルランド
安価で高率良い
泥炭エネルギー
安価なエネルギー源
オランダにおいて経済・文化が開花した理由は、風車や泥炭(ピート)から安価なエネルギーが得て、都市間の輸送、軍事的巨大船の建造が可能となった
追放ユダヤ人の
オランダへの移住
交易先進国化
1538年のアムステルダム・漁村として築かれたが、世界の金融の中心地となる。
オランダは急速にユダヤ人のグローバルネットワークを活かして交易貿易国として先進化した。
親ユダヤ
カルビン派
カルヴァン派の歴史転換
経済危機に陥っていた各国は、
ユダヤ人を金融・財政・管理分野で生かし経済の立て直しを行った。
ジュネーブから
オランダ
フランス、(ユグノー)
と急速に広がっていく。
宗教改革のルター派は
反ユダヤ主義であった
ルターは
「ユダヤ人と彼らの嘘」
(On the Jews and Their Lies)
という著作の中で、
ユダヤ人を
偽りの宗教的権威主義者として批判し、
彼らがキリスト教徒に対して
悪意を持っていると主張した。
(注)
現代のルター派教会は、
ルターの反ユダヤ主義を
否定しています。
カルヴァン派、
ユダヤ人をパートナーに、
蓄財の奨励
彼は、ルターの考えに賛同しながらも、より革新的な思想を持って、カトリックでは罪とされていた「蓄財」を認めた。
お金儲けを推奨
神によって救われる「選ばれし者」と地獄に落ちる「見捨てられた者」があらかじめ決まっているという「予定説」を提唱。そして、自分がどちら側なのかは「仕事に励んで成功するかどうか」で確かめられるとした。
働くことはよいことだ
宗教と経済が車の両輪となった
資本主義を発達させたう宗教として、(プロテスタンティズムと資本主義の原理:マックスウエバーに影響を与えた)。宗教と経済が車の両輪となった。
オランダの貿易独占
特許権、株式制度・証券取引の発明
ユダヤ人に寛容であったオランダは、彼らの金融・管理能力を活かして東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社を設立。アムステルダムの貿易商(ユダヤ人の支援)は「特許」で後世のオランダ植民地を形成する海外権益を創り出した。同時に、ユダヤ人によって「株式制度」も発明された。世界を牽引するファイナンシャル・センターとなった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所でもあった。
オランダの繁栄期間は、17世紀に始まり18世紀に終わりました。この時期、世界的に有名な芸術家や学者を輩出しました。
100年(17~18世紀)
繁栄。後、衰退の要因
①人口が増加しなかった。
⓶独占貿易で、特許活用がなかった。
➂低金利国債で借金漬けになった。
④ 政府財政再建のため消費税引上げ。
⑤国際競争力の低下。
17世紀.フロンティア
ヨーロッパでは
三十年戦争(1618年-1648年)
カトリック教会とプロテスタント教会の
対立が激化していた。
メイフラワー号に乗っていた植民者
半分は、英国教会の意思ではなく
独自の決断に従って
キリスト教信仰の自由を求める
清教徒のうちの
分離派(ピルグリム)だった
新天地アメリカへ
ピルグリム・ファーザーズ
1620年、イギリス南西部プリマスから、新天地アメリカの、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ったときの船の名[1]。乗客は102名、乗組員は25から30名だった。
自由を求めて
17世紀初頭のイギリスは、政治的、宗教的混乱が続いていました。多くの人々は、自分たちの信仰や自由を求めて新しい土地へ移住することを決意しました。しかし、その決断には高い代償が伴いました。
家族と別々の船に乗り込み、
数か月間の危険な航海を乗り越えて、新しい世界に辿り着きました。船内では、病気や飢え、不衛生な環境が蔓延し、多くの人々が亡くなりました。
ピルグリム・ファーザーズとして知られています。
以下は、主要なメイフラワー乗客の一部です。
- ジョン・カーバー
リーダーで、メイフラワー号の船長を選出し、自治政府の指導者。 - ウィリアム・ブラッドフォード
指導者となる人物で、自身の日記を書き残し、歴史を記録しました。 - ウィリアム・ブリュースター
指導者の一人で、教会改革運動に参加し、出版事業を興しました。 - ミレン・ビルソン
メイフラワー号の船員の一人で、後に指導者となりました。 - エドワード・ウィンスロー
指導者の一人で、マサチューセッツ植民地の知事を務めました。 - スティーブン・ホプキンス
イングランドで商人として成功し、メイフラワー号の航海に参加しました。 - ウィリアム・ブラウン
メンバーで、病気にかかり航海中に死去しました。
メイフラワー誓約書
メイフラワー誓約は、
1620年にアメリカのマサチューセッツ州に到着したピルグリム・ファーザーズが、船上で起草し署名した合意書です。
この誓約の目的は、
ピルグリム・ファーザーズがアメリカに入植する際に、お互いの協力と共同体を形成することを目的として作成された。誓約の内容は、以下のようなものでした。
・ピルグリム・ファーザーズは、
・自分達の自由と独立を守り、自分達が作成した法律に従って生活することを誓う。
・お互いを尊重し、共同体として協力して生活することを誓う。
・自分たちが作成する法律や制度に従って、共同体を管理することを誓う。
誓約に署名した人々は、共同体の安全と利益のために最善を尽くすことを誓う。
このメイフラワー誓約は、後にアメリカ合衆国の建国に大きな影響を与えたとされています。また、この誓約がアメリカの自治や民主主義の原点とされていることもあります。